史学雑誌
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十六世紀における対馬と妙心寺派
顧 明源
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2022 年 131 巻 9 号 p. 1-20

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抄録

本稿では、妙心寺派が対馬に流入する経緯を明らかにした上で、偽使派遣などの朝鮮通交を下支えする勢力としての実態を検討し、対馬における妙心寺派の展開過程を歴史的に位置づけたい。
一九八〇年代後半以降、日朝関係史において「偽使」研究が大いに進展し、十四世紀末期から十七世紀前半の日朝関係は「偽使の時代」とも評価された。特に、十五世紀中頃以降、対馬宗氏は偽使派遣体制による日朝通交の貿易権を独占するに至った。こうした状況下、宗氏の偽使派遣に携わる人的基盤であった禅僧勢力にかかる研究が蓄積されてきているが、『右武衛殿之使朝鮮渡海之雑藁』など三つの朝鮮渡海日記の記主とおぼしき「天荊」という対馬の外交僧、および彼が所属する妙心寺派と対馬とのかかわりを追究する研究は不十分であり、検討の余地が残されている。
第一章では、妙心寺派の対馬への流入の背景には、十五世紀後半、宗氏が幕府・将軍への接近の結果、対馬僧と京都との関係が深くなったことがあるとした。そして、十六世紀前半、対馬出身の禅僧が京都妙心寺で修行したことを契機として、妙心寺派が対馬に流入していく過程とその展開の大筋を明らかにした。
第二章では、天荊に注目し、妙心寺派僧の語録と対馬に残る史料をあわせて分析し、天荊と三玄宗三という対馬豊崎郡出身の妙心寺派僧は同一人物であったと結論付けた。そして、より視野を広げ、十六世紀後半、朝鮮・対馬・京都と妙心寺派との関係を検討し、天荊=三玄に代表される妙心寺派僧のネットワークを通して、朝鮮・対馬・京都を結ぶ人・物・情報の交流がなされていたことを明らかにした。
以上の考察および近年の研究動向を考え合わせると、戦国期、地域権力と結びついて大いに発展した妙心寺派は、臨済宗幻住派とともに十六世紀前半から、対馬との関係を構築し、対馬の外交僧を輩出し、対馬の偽使派遣を支える人的基盤となっていたといえる。

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