史学雑誌
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明治中・後期の皇室財政
制度と実態
加藤 祐介
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2021 年 130 巻 4 号 p. 64-92

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抄録

本稿は、明治中・後期(1888~1912年)における皇室財政の制度と実態について、基礎的な検討を行うものである。
1888~1893年度においては緊縮財政路線がとられた。一方、この時期の宮内省内蔵頭の杉孫七郎は、平常の財政運営に関しても伊藤博文の指導力に依存する傾向があり、また主に元老によって構成される皇室経済会議が皇室財政を監督する体制を支持していた。
1894年度以降、皇室財政は次第に膨張へと転じていく。そうした中で内蔵頭の渡辺千秋は、御料地経営の収益を組み込んだ統一的な財政制度の確立や、借入金の完済などを提起した。また渡辺は、杉内蔵頭の時代とは異なり、平常の財政運営に関しては、宮内省は自ら問題を処理する能力=専門性を備えつつあると認識していた。
1903年以降、帝室制度調査局において皇室法の検討が活発化していった。同局および宮内省内での検討を経て、1910年に皇室財産令が、1912年に皇室会計令が制定・公布された。皇室財産令によって、皇室経済会議は宮相の「諮詢機関」である帝室経済会議へと縮小再編され、宮内省の専門分化が進展した。また皇室会計令によって、御料地経営の収益を組み込んだ統一的な財政制度が確立した。
一方で、田中光顕(宮相)・渡辺体制下の宮内省は、財政基盤強化のためのアドホックな資金獲得に走るところがあった。日清戦争賠償金の皇室財政への編入(1898年)や国庫支出の皇室費の増額(1910年)はその典型である。宮内省は、前者によって借入金の完済に成功し、後者によって日露戦後の財政逼迫に対処したが、こうした対応は議会(国民)との間に一定の緊張を生じさせた。こうした明治中・後期における宮内省の対応のあり方は、議会(国民)との間の緊張を回避するという志向が明確に見られた1920年代のそれとは、大きく異なっている。

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