自由学園は1921年に女子中等教育および高等科を各種学校としてスタートし、その後27年に小学校を設立した。1935年には男子中等教育(各種学校)をスタートする。しかし、この男子中等教育の構想段階では、自由学園の創立者である羽仁もと子・吉一が、主に『婦人之友』誌上にて、当時の識者たちと広く男女共学について議論をしていることがわかった。羽仁夫妻は共にジャーナリストで、学校設立前の1903年より家庭改良から社会改革を目指して雑誌を創刊、誌上ではたびたび教育問題を取り上げ、自身が学校を設立する際も開校の告知や生徒募集は主に誌上にて行った。本論では1910年代末から1930年代にかけての、羽仁夫妻の男女共学構想と、その後の男子中等教育構想への変遷を、『婦人之友』の記事から追う。当時の日本で展開された男女共学論の動きとも重ねつつ、羽仁夫妻が男子部設立に至るまでにどのような検討を行ったのか、その過程の一部を明らかにすることを試みる。