日本毒性学会学術年会
第50回日本毒性学会学術年会
セッションID: S3-2
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シンポジウム3: 生体金属部会シンポジウム 〜金属毒性学の50年史とこれからの50年にかける期待〜
水俣病とメチル水銀研究の歴史
*永沼 章
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抄録

水俣病が公式に確認されたのは1956年である。しかし「水俣周辺で何かが起こっている」という兆候はそれよりもかなり以前からあった。1940年頃には湾内の海草が白色化して海面に浮き、係留中の船の底に牡蛎が付着しないことが観察されていた。その後も、1950年頃にかけて、湾内で魚類が浮上したり、カラスの群れが海中に突入するという現象などが認められていた。また、1954年8月には「猫てんかんで全滅---水俣市茂道部落ねずみの激増に悲鳴」という記事が熊本日日新聞に掲載されている。これらの事実が地域住民に不安を与えたことは間違いない。熊本大学医学部による詳細な調査の結果、水俣病の最も早期の発症は1941年の1名であり、それ以降も1954年にかけて毎年のように1〜4名の発症者がいたことが分かった。また、発症者数は1955年には21名、1956年には39名と、この時期から急激に増加していた(その理由については本講演にて考察する)。水俣病の原因が究明されるまでにはかなりの時間がかかった。1957年に熊本大学が原因は水俣湾でとれた魚介類の摂取であると発表し、同年にチッソ工場の排水中に含まれる何らかの物質が原因であるとの報告がされた。チッソ工場はアセトアルデヒドなどを生産しており、廃液を海に流していた。2年後の1959年7月に熊本大学研究班が原因は有機水銀との説を発表した。しかし、反論も多く、最終的に当時の厚生省が「原因はチッソ工場から排出されたメチル水銀」との公式見解を発表したのはそれから9年経った1968年であった。メチル水銀は魚介類中に比較的蓄積しやすく、魚介類を介してヒトの体内に入ったメチル水銀は血液脳関門を通過して脳に蓄積して、脳細胞に対して選択的に障害を与える。しかし、その機構は水俣病の公式確認から67年が経過した現在も未だ不明である。

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