日本地質学会学術大会講演要旨
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第130年学術大会(2023京都)
セッションID: T10-O-15
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T10.文化地質学
日本最大の砕屑岩脈「春採太郎」の文化地質学
*松原 尚志
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抄録

北海道釧路地域南東部には,上部白亜系-中部始新統根室層群および中-上部始新統浦幌層群を貫く砂岩脈が多数存在していることが知られている(e.g. 徳田, 1930; 河合, 1956; 岡崎・杉山, 1958; 長浜, 1962).釧路市興津海岸に見られる「春採太郎」(永淵, 1952)はその中でも最大のもので,1970年代以降,道東におけるジオサイトの一つとして研究者や市民に親しまれてきた(e.g. 岡崎ほか, 1971; 道東の自然史研究会, 1999編; 前田, 2022).今回,これらの砂岩脈について文化地質学的観点から調査を行った結果,以下のことが明らかとなった:1) 釧路の砂岩脈について初めて図示・解説したのは大内餘庵による『東蝦夷夜話 巻之中』(大内, 1861)で,釧路市知人でかつて見られた砂岩脈(通称「義經橋杭岩」/「カムイルイカ」/「辯天そり」)をアイヌに伝わる義経伝説とともに図示・記述している.2) 釧路の砂岩脈(「釧路のサンドストン・ダイク」)を地質学的観点から始めて図示・解説したのは徳田貞一(1930)である.3) 1930年代〜1950年代の国指定史蹟名勝天然記念物指定に向けての運動の中心となったのは地元の民俗学者たちであった.4) 「釧路新聞」には1938年と1941年の文部省の史蹟名勝天然紀念物調査会の委員,脇水鐵五郎による現地調査に関する記事があり,その時の模様については脇水 (1939)や片岡 (1947)が述べている.しかしながら,太平洋戦争の勃発や脇水の逝去もあり,正式な申請は行われなかった模様である.5) 1950年代までは「義經橋杭岩」の方が「春採太郎」よりも有名であったが,前者は1950年代後期には干潮時に出現しなくなり,忘れ去られてしまった.6) 『釧路港案内』(釧路市役所港灣課, 1949-1952)の1: 1万 釧路港全圖には名勝の一つとして2本の「水成岩脈(義經橋杭岩)」が表記されているが,地図が1:5,000となった改訂版(釧路市, 1958-1963)ではその表記はなくなっている. 7) 「春採太郎」の命名者である永淵正叙 (1894-1970) は1916年に東京帝國大學地質学科を卒業後,三井鉱山に入社.命名当時は三井鉱山系列の太平洋炭礦の専務であった.8) 初めて公開された「春採太郎」の写真は,地質調査所 所内第4回写真コンクール入選作「サンドダイク」(柴田, 1958)である.9)「春採太郎」についてこれまでに最も詳しく調査しているのは『1/5万 地質図幅説明書 釧路』(長浜, 1962)である.10)「春採太郎」が釧路市の天然記念物に指定されたのは1975年12月12日で,正式名称は「砂岩脈(サンド・ストーン・ダイク)」である.当時の「釧路市立博物館館報」にこの天然記念物指定に関する記事はない.[文献] 道東の自然史研究会, 1999 (編), 道東の自然を歩く 地質あんない; 片岡, 1947, 史蹟名所 釧路; 河合, 1956, 1/5万 地質図幅説明書 昆布森; 釧路市, 1958-1963, 釧路港案内; 釧路市役所港灣課, 1949-1952, 釧路港案内; 前田, 2022, 見る 感じる 驚く! 道東の地形と地質; 永淵, 1952, 炭砿技術, 7(12); 長浜, 1962, 1/5万 地質図幅説明書 釧路; 岡崎・杉山, 1958, 釧路博物舘新聞 (79); 岡崎ほか, 1971, 地質ニュース, (203); 大内, 1861, 東蝦夷夜話 巻之中; 柴田, 1958, 地質ニュース(44); 徳田, 1930, in 山本(編)日本地理体系 10. 北海道,樺太篇; 脇水, 1939, 史蹟名勝天然紀念物, 14(1).

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© 2023 日本地質学会
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