都市計画論文集
Print ISSN : 1348-284X
第38回学術研究論文発表会
セッションID: 125
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明治期における日本橋の修繕・改架にみる「美観」の意味について
*馬木 知子
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キーワード: 美観, 日本橋, 近代化, 東京, 明治期
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抄録

明治維新後の東京では、近代国家の首都としての体裁を整えるべく、都市建設が進められた。江戸とは異なる欧米に倣った都市の姿を実現しようとするなかで、都市の美しさ、近代都市の美観、という新しい都市の見かたが生まれたと考えられる。 近世以来、商業や交通の中心地であった日本橋は、明治6年、洋風の木橋となり、開化の象徴の役割を果たした。以後、鉄道馬車や電車の開通など近代化の中心でありつづけ、たび重なる修繕を経て、明治44年、現在まで残る石造アーチ橋への架換に至った。本研究は、首都の近代化を象徴する構造物の一つである日本橋の修繕・改架の経緯を通して、首都の近代化のなかでの美観の意味の変遷を明らかにしようとするものであり、以下の結論を得た。(1)近代橋梁における美観は、明治初期に目を惹く「みもの」として発見され、当初は多分に堅牢の意味を含み、後に装飾を施すことを意味するようになった。明治前半の日本橋の改架案も、堅牢な「みもの」を求めるものであり、近代化を強く意識していた。(2)20年代までは橋梁自体が美観の対象であったが、30年代半ばには、周囲との関係における美観が発見された。日本橋は他橋梁に比して近代橋梁への改架が遅れたが、美観のために建築家と土木家が共同設計をするという方法を示し、近代都市の美観のエポックを築いた。(3)明治40年の設計案では、周囲の景物との関係において意匠を考案する、調和という美観のありかたが示されたが、44年時点の日本橋附近は、調和の実現は困難な状況であった。これに対し、区域の美観を計画的に設計する必要が指摘されたこと、理想像としての美観を建築家らが共有した可能性があることから、地域の美観を包括的・計画的なコントロールへの関心が高まっていたことが推察できる。(4)日本橋の修繕・改架の経緯を整理する中で、明治35年と明治40年の設計案の形態上の類似を確認したが、一方で美観の意味という観点からみると、両者は異なる発想に基づく設計であると考えられる。

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© 2003 公益社団法人 日本都市計画学会
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