2017 年 100 巻 p. 347-366
本稿の主題は,教師を対象にしたインタビューの結果を用いて「教師は子どもを理解しなければならない」という「子ども理解」を理由に構成される教師批判言説を,教師がいかに語るのか描き出し,言説に対する教師個々の語りに着目する意義を示すことである。
1970年代後半から噴出したと考えられる,いじめや不登校などの「教育問題」によって,日本社会の中で教師は批判の対象として捉えられてきた。教育社会学ではそうした教師へのまなざしの脱構築を目的とした,教育言説の研究を蓄積してきた。ところが,教師に対する批判言説を,教師自身がいかに語るのかといった議論はこれまで看過されてきた。それでは教師は世間の教師批判をいかに語るのか。教育言説の研究とは異なる視点から,そうした言説の脱構築を志向するために,また教師という立場・職業をより深く理解するために,教師批判に対する教師の語りに着目する必要がある。
分析の結果,研究協力者は言説の中で想定される「子ども理解」を否定的に解釈しながらも,その一方では,自らが〈教師である〉ゆえに,そうした物語の正当性を認め,理解を示そうともしていた。こうした語りを詳細に読み解く本稿は,社会的な要請と,教職経験の中で積み上げられた経験知の間に生じるアンビバレントに対し,自ら折り合いをつけようとする動的な教師の姿を描き出す。そして最後に,そうした教師の語りをエンパワメントする研究の重要性を主張する。