史学雑誌
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日中戦争下における揚子江航行問題
日本の華中支配と対英米協調路線の蹉跌
吉井 文美
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2018 年 127 巻 3 号 p. 1-36

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抄録

本稿では、日中戦争期に日本が揚子江の航行を独占しようとする過程で発生した国際問題について、宣戦布告を行わずに事実上の占領地経営を行い、東亜新秩序を掲げながら英米協調路線を探るという、日本が抱えていた二つの矛盾への対応と、揚子江開放問題が深くかかわっていたことに注目しながら検討した。
揚子江上での戦闘に一区切りがつき次第、自由航行再開を求める英米に対して、日本は漢口陥落後も、軍事・治安上の理由から封鎖を解こうとしなかった。しかし、日本の商船が往来するなかで、第三国船が揚子江路から締め出されていること、事実上の占領地支配を行い、揚子江を封鎖していることが非難された。日本は作戦上の理由を掲げて揚子江開放を拒み続けるとともに、宣戦布告なき占領地支配の正当化を試みた。
さらに、本稿では有田八郎外相が東亜新秩序下における英米協調の追求という観点から、揚子江開放を図っていたことを指摘した。有田は強硬な姿勢を見せて国内をまとめたうえで揚子江開放に踏み切り、英米との協調関係を再構築しようと考えていた。しかし、占領地政策の停滞のなか、興亜院が打ち出した揚子江開放の期限は延期された。本稿では、通貨工作、水運業・商業上の進捗状況を見、開放を困難とする現地の状況について確認した。
日米通商航海条約廃棄通告の後、揚子江の部分的開放の方針が発表された。これには直接・間接的に米国に働きかけることで、日米暫定協定締結を図る狙いがあったが、英米は日本の狙い通りには動かなかった。さらに、華中の現地では開放のための準備策も、予定通りに実行できなかった。これは英米協調の追求のみならず、華中における「自他併存」や、汪精衛政権の経済基盤の育成も難しかったことも意味した。

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