2013 年 12 巻 p. 121-128
本報告では、阪神・淡路大震災から東日本大震災へと続くリスク社会の状況を、社会理論構想における"ディアボリックなもの"(分離と個別化を生む契機)と"シンボリックなもの"(結合と連帯を生む契機)という観点から検討したい。近代社会はシンボリックな社会構想の優越によってリスクを"飼い慣らし"、また"愛好"してきたが、現代社会ではそのシンボリズムが綻びつつあり、「新しいリスク」の登場とともにディアボリックな側面が顕著になりつつある。今や、近代的シンボリズムが主導してきたような形での、シンボリックなものとディアボリックなものとのバランスは崩れつつあり、リスク社会の"危険"に端的にそれが現れている。3.11で現れたディアボリックなものの開口部、とりわけ原発災害は、その証左となっている。原発災害で顕わになったのはシンボリズムの限界である。シンボリズムから出発することは、社会モデルとして限界があるのではないか。リスク社会と向きあうためには、ディアボリックなものの直視という経路を経なければならない。"きちんとした"リスク社会になるためには、新たなディアボリックな側面から目を逸らすことはできない。ここではそれを、ジンメルからルーマンに流れる"結合は同時に分離である"という理論的視点、「信頼」の両義性、「リスクと危険の区別」、「監視社会」の意味、などと関わらせることによって検討したい。