近年シカが増加しているといわれている大峯山脈前鬼地域(奈良県吉野郡下北山村)の温帯針広混交林において、ニホンジカCervus nipponが森林植生に与えている影響を明らかにするために、現在の森林構造とシカ生息密度、および1983年から2008年にかけてのスズタケSasa borealis群落の変化を調査した。2005年に行った毎木調査によると、調査区(1.08ha)には胸高直径5cm以上の樹木が54種、幹数1023本、胸高断面積にして551974.3cm^2出現した。高さ1.3m以上の稚樹を含めた樹木は1443本見られ、森林構造の指標となる胸高直径頻度分布は逆J字型を示した。一方、胸高直径5cm以上の樹木に対する剥皮痕は、18種144本(14.1%)に見られ、なかでもリョウブ(65.0%)、カヤ(57.1%)、ヒメシャラ(32.3%)などがよく剥皮されていた。また、胸高直径20cm以上30cm未満の幹の剥皮率がもっとも高く(19.3%)、剥皮の見られた樹幹の91.7%は、胸高直径30cm未満のサイズに偏っていた。調査区内に100×4mのトランセクトを8本設置して、前鬼に生息するニホンジカの生息密度を糞塊除去法で推定したところ、2008年9月のシカ生息密度は11.2頭/km^2、2008年10月は24.0頭/km^2と推定された。調査区における2009年のスズタケ桿密度は0.0023±0.0159本/m^2(平均±SD n=432)で1983年にほぼ同じ場所に設置されていた調査区でのそれは11.3±5.7本/m^2(平均±SD n=184)であり、1983年から2009年にかけてスズタケは極端に減少していた。以上の結果から、現時点で前鬼に生息するシカは林床植生に大きな影響を与えており、スズタケ群落の退行だけでなく、樹木の更新や草本、シダの生育も阻害していると考えられる。剥皮による成木の枯死はまだ顕在化していないが将来的には予断を許さない。