人類学者のあいだには、人類学を人類学たらしめているのは長期の集中的フィールドワークであるという暗黙の合意がある。もしフィールドワークを通じて産出される人類学的知が、他の社会諸科学の知とは質的に異なり、またすぐれた点をもつとするならば、フィールドワークの何がそれを可能にしているのだろうか。フィールドワークそのものを、一組の標準化された調査手法のセットすなわち方法論として体系的に教えることが困難で、まためったに教えられてこなかったという事実は、この問いとどのように関係しているのだろうか。こうした観点からフィールドワークを理論化する試みの中で、ある著者たちはフィールドワーク経験の予測不可能性や即興性を強調している。それがフィールドワーク経験の重要な特徴であることには同意しつつも、本稿では、人類学的知の特異性と優位性に関係した、他の調査手法とは差別化されるフィールドワーク経験の特徴は、これらの著者が主張する以外の点にあること、参与観察という言葉であらわされるフィールドワーク経験が、なによりもまず社会的実践であるという点にあることを示したい。具体的には、2013年に調査地を再訪した際に、私が調査地に到着する数日前に起きた、ある前途有望な青年の事故死をめぐり、私の4週間ばかりの滞在期間に聞かれた人々の語りを取り上げる。単なる無責任な噂話ではなく、「真犯人」とその殺害方法を特定する内容の、犯人の告発や賠償請求、地域からの追放といった現実につながりうる、まさに人の生死にかかわるこれらの語りとその異なるバージョンは、それぞれ異なるネットワークの中で限定的に流れていた話であった。フィールドワークのもつこうした語りへのアクセスを可能にするその特徴、社会的実践としてのフィールドワークの側面について考察する。